十数代に渡り襲名されてきた名跡
「與田治郎右衛門」

【與田治郎右衛門(先祖)の名前が登場する書籍や歴史資料】

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但馬国竹野村が海賊村と言われていた時代。播州からある商人がやって来て、色々な物を売り歩いていた。その商人は読み書き算盤の達者な人物であった。買い物を終えた商人は、播州に帰るため、鋳物師戻峠を登っていたところ、村民がやって来て「村で一番良い土地を提供するので竹野の庄屋になってくれ」と頼み込んで連れ戻し、竹野に住んでもらったのが元庄屋與田家の先祖だと言い伝えられている。
1600年代〜1700年代
慶安2年(1649年)頃〜寛文12年(1672年)頃、寛保2年(1742年)頃〜寛政8年(1796年)まで、竹野村(現:豊岡市竹野町)の庄屋を務めていた。
1673年頃(寛文13年/延宝元年頃)
この頃から「元庄屋」という屋号を名乗り始めたと考えられる。
元禄年間にたてられた、元庄屋という文字が刻まれている石碑が現存している。
1699年(元禄12年)
古文書『竹野村年貢割付状』(竹野元庄屋家)
1714年(正徳4年)
『遊行日鑑』掲載。
正徳4年7月2日、鳥目弐十疋献上。
1716年(正徳6年)
五社神社再営に携わる。
(資料「記録・五社神社再営』1716年:正徳6年)
1700年代後半
北前船 船主
1778年(安永7年)
『竹野村年貢割付状』(竹野元庄屋家古文書)
1793年(寛政5年)
『興長寺寺請状』(竹野元庄屋家古文書)
1798年(寛政10年)
蛇々山から
但馬の名木「元庄屋の松」を移植。
(神戸新聞(2012.9/27)「樹齢200年以上、町のシンボル、害虫被害 松伐採へ」)
(竹野元庄屋家 玄武岩石碑「元庄屋家 松の由緒」)
文化12年(1815年)
『竹野村土地台帳』(住吉屋蔵古文書)
1886年(明治19年)
資料『浜田外ノ浦港客船帳』
明治19年11月21日、船名:禧丸(サイハイ丸)
こんぶ売、焼もの買、二八日出船。
1897年(明治30年)
「弁天講社中」の一員となる。
(資料『弁天講社中』1897年:明治30年)
1918年(大正7年)
與田泱(與田純次の父)、名跡「與田治郎右衛門」を襲名。
2017年(平成29年)
大正時代以来、約100年ぶりに名跡「與田治郎右衛門」が襲名される。
與田純次 改め 與田治郎右衛門となる。

【先代】

明治時代生まれ。
(襲名前:與田泱)
米屋、燃料屋、古物商、日常雑貨商、建築雑貨商、保険代理業、飲食業、旅館業等、様々な商売をした。
生涯現役をモットーに、八十前になっても現役で仕事を続け、毎日のように自転車と列車で但馬地方全土を走り回り、東京へも頻繁に出張していた。
バイタリティー溢れる人物であった。
大正7年(1918年)に名跡「與田治郎右衛門」を襲名。

【先先代】

嘉永時代生まれ。
(襲名前:與田多三郎)
一日の仕事が終わり、床に就く前に晩酌をすると、労働意欲が再燃し、再び仕事を始める。
働くことが大好きな、勤勉な人物であった。
「弁天講社中」の一員。(資料:弁天講社中/1897年)
写真が残っている最古の與田治郎右衛門。
丁髷姿が確認できる。

【3代前】

北前船「禧丸(サイハイマル)」船主。
(資料『文化〜明治年間、竹野北前千石船 ー船主/船頭と主な乘員ー』)
『浜田・外ノ浦港客船帳(慶応4年以降、浜田市外ノ浦に入港した竹野の船での売買商品を記録した資料)』によると、明治19年(1886年)11月21日に、昆布を売り、焼き物を買ったという記録が残っている。

【初代〜数代前】

江戸時代初期から寛政年間頃まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つで村の首長)を務め、北前船(江戸時代に日本海海運で活躍した北国廻船)の船主でもあった(竹野元庄屋家古文書「興長寺寺請状」寛政5年/1793年)。
江戸時代中期頃からは「元庄屋」という屋号を名乗り始める。
元禄年間にたてられた石碑に元庄屋という文字が刻まれている。
寛政年間には後に但馬の名木「元庄屋の松」と呼ばれ、町のシンボルとなる松の木を蛇々山から元庄屋家敷地内に移植(2012年9月27日発行 神戸新聞「樹齢200年以上、町のシンボル、害虫被害 松伐採へ」)。
昭和期までは、江戸時代からある蔵の中に、出石城主にお米を渡していたという借用書や、刀など、庄屋ゆかりの品が残っていた。家紋は「丸に蔦」。
物を売り買いするために竹野村へ来ていた播州商人が、元庄屋與田家のルーツだと言い伝えられている。

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