與田治郎右衛門(襲名前:純次)
実業家(元庄屋グループ会長)
戦争体験語り部
元大使館職員
大正14年(1925年)11月、兵庫県城崎郡竹野村(現:兵庫県豊岡市竹野町)で商売人の父・與田治郎右衛門(先代)と、母・よしのもとに生まれる。
先祖は江戸時代初期から寛政年間頃まで庄屋(江戸時代の村役人である地方三役の一つで村の首長)を務めており、北前船(江戸時代に日本海海運で活躍した北国廻船)の船主でもあった(竹野元庄屋家古文書「興長寺寺請状」寛政5年/1793年)。
江戸時代中期からは「元庄屋」という屋号を名乗り、米穀商、燃料屋、雑貨商、古物商等、様々な商売を営んできた。
幼少期に、江戸時代(安政年間)生まれの祖母の昔話から郷土の歴史を学び、明治時代生まれの父と母からは商売に向き合う姿勢を学んだ。
昭和17年(1942年)12月、戦時体制により17歳で高等学校を繰上げ卒業。
中学〜高校時代に、大日本武德會・剣道貳段/銃剣道貳段を取得(剣道部には所属しておらず独学で段位を取得)。校内の射撃競技会で表彰されたこともあった。
また体力章検定(100m・2000m走、走り幅跳び、手榴弾投げ、運搬50m、懸垂)に上級で合格するなど体力には恵まれていた(検定ができた当初の合格率は2割程度、上級合格者は1%以下)。
昭和18年(1943年)、海を渡り、大日本帝国上海大使館事務所(在上海大日本帝国大使館事務所)に就職。
日本人高等官の育成業務に携わる。
月給は110円(その当時、中等学校卒業の初任給が45円、学校の校長の月給が100円くらいと聞いている)。日本(内地)の両親に毎月50円ずつ送った。
昭和19年(1944年)の末に大使館を退職し、徴兵検査を受ける。
本来ならば数えの21歳で徴兵検査が行われるが、私の年からは2年分の徴兵検査が行われることになった。昭和20年(1945年)が終戦の年なので、従来ならば、私は戦争に行かなくてもよかったのだ。しかし当時は嬉しい気持ちの方が大きかった。
「大和男子と生まれなば、散兵線の花と散れ」、これが当時の日本男子の本望であった。
昭和20年(1945年)2月、甲種合格、大日本帝国陸軍満洲独立工兵隊1893部隊に幹部候補生として現役入隊。
出征の際、家族に「もし生きて帰ることができなかったら読んでほしい」と伝え、実家の仏壇の裏に手紙(19歳の辞世の句/遺書)を置いて戦地へと赴く。
博多から海を渡り満州へ。満州では主に陣地構築の任務を遂行した。
終戦直前になり、ソ連が満州に侵攻し戦闘に発展。所属部隊は、ソ連軍の戦車攻撃に対し、蛸壺(塹壕)に潜み、ソ連軍戦車の下に黄色爆薬(工事用マイト)を持って飛び込み自爆するという命をかけた肉薄攻撃(特攻)作戦を命じられる。上官から詳細な説明はなく、とにかく戦車が自身の近くに来たら爆薬を持って突っ込めという指示しかなかった 。その際、隊員に支給されたのは、三八式歩兵銃の弾5発、自決用手榴弾1発と、酒一升(私はお酒に弱い体質なので、これから死ぬかもしれないという極限の時に気持ちが悪くなっても困るので飲まなかった。)であった。戦車と戦うにはあまりにも火力不足である。自身の蛸壺の方へ戦車は向かって来なかったが、近くの戦友たちが蛸壺から飛び出し自爆する光景、またその爆撃を受けながらも土煙の中から何事も無かったかのように出てきた戦車の様子は、今なお脳裏に鮮明に焼きついている。当然、自身の方へ戦車が向かって来ていたら、私も突撃していた。死ぬのは明白であるのに、当時、恐怖心はまったく無かった。
ソ連軍との戦闘から生き残り、朝鮮半島を南下敗走。約20日間に及ぶ密林でのサバイバル生活が始まる。雨風を凌ぐことができない密林。もちろん寝る時も地べた。食料も底を突き、周辺にいたカタツムリを食べて命を繋いだ。そんな中、部隊は、再びソ連軍に包囲され機銃掃射を受け、隊員の半数以上が銃弾に倒れる。すぐ隣にいた戦友も撃たれてしまった。隊員30名のうち生き残ったのは、わずか7名(産經新聞1976.1/19 但丹ニュース「シベリアの思い出いっぱい、シラカバのトランプ見つかる」)。その場はなんとか切り抜けた。その後、友軍と合流するため、銃弾が当たり重症を負っていた古年兵と三八式歩兵銃2挺を担ぎ、密林の中、足を早めた。
9月1日前後、密林から抜け出すと、武装解除を受け武器を持っていない友軍に遭遇。その時、初めて終戦を知り、武器を置いた。終戦から半月後のことである。
その直後、ソ連軍に捕まってしまい捕虜として約2年間の強制労働(シベリア抑留)を強いられることになる。
列車に乗せられ極寒の地、シベリアへ。途中、ソ連兵に時計等、身に付けていたものを没収される。そして到着したのがビロビジャンの収容所(ラーゲリ)であった。
零下40度の極寒の中、林伐採、燃料(薪)調達、凍りついた川から水を汲む、船の先導、死者の埋葬、馬鈴薯畑の開墾、牧草(馬の餌)調達、麦の収穫、病院の炊事、等の労働をした。
抑留中の一番の娯楽は就寝時に戦友たちと郷土の食べ物の話をすることであった。そのような会話をしている時に、戦友からの返事が途中から聞こえなくなる。朝起きたらその戦友が栄養失調で死んでいる。そのようなことが何度もあった。亡くなった戦友たちの埋葬も私たちの仕事である。私自身、抑留1年目に凍傷で右手中指の第一関節の先端を切断。その後、擬似赤痢に感染したため、栄養失調になり、一時意識を失うなど、生死の境をさまよう。
シベリアでの主な食事は黒パンであった。配られる食事の量は労働量に応じて変わった。よって体が弱っていてあまり働けない捕虜は配られる食事の量も少なかった。しかし、日本人たちは、食事を支給されたら一度集まって、配られた食事を持ち寄り、量を均等にして、再分配した。困っている人を思いやる心。そこに日本人の「おもてなしの心」を感じた。
入浴は年に数回だけ。入浴後、外でタオルをパッと広げると、その瞬間、板のように固まってしまう。それが零下40度の世界だ。
監視の厳しい抑留生活の中、シラカバの木の皮でトランプを自作し、戦友たちと無事に生きて帰国できるかを占った。ジョーカーのカードには鬼のように怖かった収容所長を模した絵を描いた。このトランプは帰国時にソ連の検閲に引っかからなかったため、日本へ持ち帰ることができ、現存している。
昭和22年(1947年)に解放され無事帰国。舞鶴港に到着後、街を歩いていると、いかにも抑留帰りと分かる格好をしていたのにも関わらず、周辺にいた人たちは物珍しそうにジロジロと見てくるだけで誰一人、お疲れ様でしたと言ってくれなかった。辛い思いをして命からがらやっとこさ祖国へ戻ってこれたのに悔しかった。
その後、終戦後の日本の実状を知るべく約半年間、日本全国を回る旅に出る。
昭和23年(1948年)、抑留時に知り合った戦友と共同で兵庫県多可郡野間谷村にて天然凍豆腐製造業を開業。これが初めての起業となる。同年、父・與田治郎右衛門(先代)と共に保険代理業を開業。
昭和24年(1949年)6月、兵庫県養父市八鹿町の実業家2名と共同で、八鹿製麺工場(乾麺製造業)を開業し、同年12月には同町に九鹿冷凍工場(凍豆腐製造業)を設立開業。しかし工場は数年で倒産し、多額の借金を抱えてしまう。
借金取りに追われる身となったが、「私は逃げも隠れもしません、このシベリア帰りの丈夫な体を預けますから使ってください』(致知出版社『致知』2017年2月号「生涯現役"元庄屋会長 與田純次"」)と、自ら債権者の方へ近づき、与えられたあらゆる仕事をこなした結果、借金を免責してもらった。
その後、独立し、昭和26年(1951年)、故郷竹野にて、元庄屋豆腐店(豆腐油揚製造業)を開業。豆腐作りの傍、元々機械好きということもあり、次第に豆腐製造機器への興味が湧く。
再起を図るため、昭和30年(1955年)4月に、兵庫県豊岡市(合併前旧豊岡市)へ進出。豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工業者「元庄屋商店」(現:株式会社元庄屋)を設立開業し、社長に就任。先祖代々続く「元庄屋」の屋号を受け継ぎ、当時、但馬の地では最先端であったボイラー事業を行う。時は高度経済成長の時代。事業は軌道に乗り順調に業績を伸ばしていった。
しかし昭和44年(1969年)1月、豊岡市幸町に建設した新築1ヶ月の旧元庄屋商店本社社屋が全焼。初荷で持ち込まれた山済みの商品や、新車の社用車も含め、約3千万円以上(現在の消費物価換算約「1億5千万円」以上)の損害が生じた。10余年の歳月を掛け、社員一丸となって築き上げた宝物が一瞬で泡となり消えてしまった。警察からは放火の疑いで取り調べを受けたり、大事な財産に火災保険をかけていなかったり、仕入先からは取引中止の申し出を受けたりと、それこそ地獄のようなものであった。
工場が倒産した時もそうであったが、本社が全焼した時も、「自分は陸軍時代の戦闘と、極寒シベリアでの強制労働を耐え抜いた強い体を持っているのだ、あの時の命懸けの苦労を考えたら多少の苦労はどうってこと無い」と、自身に言い聞かせ、毎晩夜遅くまで、がむしゃらに働いた。結果、数年で損害分を取り戻すことができた。どん底から這い上がり現在がある。
これまでに、但馬地方で、約3万台以上の家庭用/工業用灯油ボイラーの販売・設置を行ってきた。その後、息子の代で、北近畿地域まで事業を拡大。
昭和30年(1955年)4月、竹野町商工会副会長 就任。同年同月、竹野村観光協会企画宣伝部長 就任。故郷、海の町「竹野」の観光事業に取り組む。
昭和35年(1960年)頃には、妻が生まれ育った街、神戸で見た花火大会から着想を得て、現在まで続く「竹野海上花火大会」の前身となる花火大会を企画/開催。
その他、浜茶屋(海の家)や喫茶店の開業、海水浴プランの作成、バンガロー施設やグラススキー場の建設/運営、竹野浜遊園地化等、同世代の仲間たちと竹野を盛り上げるために奔走した(読売新聞 1955.6/2 但馬「夏に備えの海水浴場プラン、浜辺一帯を遊園地化」)。
平成3年(1991年)2月、第76/77代 内閣総理大臣・海部俊樹より、シベリア抑留に対する慰藉の念として銀杯と書状が授与される。
平成10年(1998年)7月には、全国強制抑留者協会主催のシベリア慰霊訪問団に参加。約半世紀ぶりにシベリアの地を踏む。
自身が収容されていたチョプロオーゼロのラーゲリ跡地にて、チョプロオーゼロ組を代表して弔辞を述べた(神戸新聞 1998.7/9「半世紀ぶりにシベリアへ、抑留体験した豊岡市の3人」)。
平成29年(2017年)4月、先代(父)まで十数代に渡り襲名されていた名跡「與田治郎右衛門」を襲名。
與田純次改め與田治郎右衛門となる(神戸家庭裁判所豊岡支部審判)。
近年、孫たちのサポートのもと、自らの戦争体験を、インターネットを通じて若い世代に伝える活動を行っている。過去にはシベリア抑留に関しての執筆をしており、また各種メディア(テレビ/新聞/出版社書籍/WEBメディア/教育機関等)から戦争体験に関する取材を受けている。
96歳になった令和3年(2021年)現在も、「生涯現役」をモットーに毎日働いている。健康の秘訣は就寝前・起床後に各30分かけて行う腹筋・背筋のストレッチ。