『シベリア慰霊訪問記』内
「シベリア慰霊訪問団に参加した想い出」
與田純次 著
(1998年/全国強制抑留者協会 編)
平成10年7月13日〜17日の5日間、“全国強制抑留者協会”主催の慰霊訪問団に参加して、久々に緊張と感激を味わった一瞬でした。
(抑留から解放されてちょうど50年の年、與田治郎右衛門純次、当時72歳)
最終目的地だったテルマ地区に、脳炎ダニ異常発生のため、日本国厚生省から、我々の立ち入りを禁ずるとの通達により、通過するだけの予定だったチェプロオーゼロ、ビラカンの収容所跡と墓地を、時間をかけ丹念に捜査していただいた際、チェプロオーゼロの病院で、抑留初年度に祖国の夢を見ながら雪の下に消えていった多くの戦友に一番身近なもの、だから、急ではあるが弔辞を頼むとのことで、誠に僭越ではありましたが、皆さんに代わって弔辞やわ申し上げたのでした。テルマ地区が目的だった人達には誠に申し訳ないと思いますが、我々少数のチェプロオーゼロ、ビラカン組にとっては、こんな感動と幸運はなかったと思います。ありがとうございました。団長さん、また添乗員、通訳の皆様、団員の皆様、あらためて御礼申し上げる次第でございます。
ーチェプロオーゼロでの弔辞全文ー
「もっと早く来たかった。50年は長過ぎた。今は亡き戦友の皆さん、私たちは今回初めてシベリア慰霊訪問ができると聞いて飛んできました。このことは50年の間、頭から離れなかった私の夢でした。あの時、皆様の襦袢、袴下、褌まで剝ぎ取って広野の雪の中に埋めてきた、というより、雪をかき集めて皆さんにかけてきたこと、本当にごめんなさい。あの時は何の感情もわかず、ただ言われるままに行動していました。栄養失調で退院直後の私でしたので放心状態で、ただ次の穴に自分が入るのかなぁくらいのことしか思えませんでした。本当にごめんなさい。このことだけが50年間、私の心の隅で消えることのない苦しみの一つでした。軍隊の話、戦争の話、シベリアの話になると、世界中の観光旅行に行くことがあってもシベリアだけは行きたくない。なぜなら、野ざらしにしてきた多くの戦友、零下50℃の凍土に凍えている友が恨んでいるような気がする感情が込み上げてきて、話が続かない時もありました。やっと地下の皆様にお会いすることができました。せめて、戦友の体に、戦友の骨に手を当てて「すまなかった、許して下さい」と言いたくてやってきました。もうすぐ8月のあの暗い思い出の終戦、敗戦の日が近づいてきます。僅かな時間でお別れしなければなりませんが、安らかに眠って下さい。戦友の皆さん、今の気持ちの十分の一も言い表すことができませんが、慰霊訪問団の皆様に代わり、悼辞を申し上げます。」