極寒のシベリア抑留の最中、
白樺の皮を使って自作したトランプ🃏

このトランプを使い、戦友たちと生きて祖国日本へ帰れるかを占った。
トランプには戦友たちの手あかも残る。
抑留中、多くの戦友たちを失い埋蔵した。
(昭和20年〜昭和22年)

昭和51年(1976年)産経新聞

シベリア抑留解放から約30年後となる1976年、トランプが生家の蔵の中から見つかった際に取材を受ける。
與田治郎右衛門純次、当時51歳。
これが自身の戦争体験について語った初めての取材となった。
現在、このトランプは、元庄屋グループの社屋の一室「元庄屋與田治郎右衛門記念室」(仮称)に展示されている。

列車に乗せられ極寒の地、シベリアへ。途中、ソ連兵に時計等、身に付けていたものを没収される。そして到着したのがビロビジャンの収容所(ラーゲリ)であった。
零下40度の極寒の中、林伐採、燃料(薪)調達、凍りついた川から水を汲む、船の先導、死者の埋葬、馬鈴薯畑の開墾、牧草(馬の餌)調達、麦の収穫、病院の炊事、等の労働をした。
抑留中の一番の娯楽は就寝時に戦友たちと郷土の食べ物の話をすることであった。そのような会話をしている時に、戦友からの返事が途中から聞こえなくなる。朝起きたらその戦友が栄養失調で死んでいる。そのようなことが何度もあった。亡くなった戦友たちの埋葬も私たちの仕事である。私自身、抑留1年目に凍傷で右手中指の第一関節の先端を切断。その後、擬似赤痢に感染したため、栄養失調になり、一時意識を失うなど、生死の境をさまよう。
シベリアでの主な食事は黒パンであった。配られる食事の量は労働量に応じて変わった。よって体が弱っていてあまり働けない捕虜は配られる食事の量も少なかった。しかし、日本人たちは、食事を支給されたら一度集まって、配られた食事を持ち寄り、量を均等にして、再分配した。困っている人を思いやる心。そこに日本人の「おもてなしの心」を感じた。
入浴は年に数回だけ。入浴後、外でタオルをパッと広げると、その瞬間、板のように固まってしまう。それが零下40度の世界だ。

監視の厳しい抑留生活の中、シラカバの木の皮でトランプを自作し、戦友たちと無事に生きて帰国できるかを占った。
ジョーカーのカードには鬼のように怖かった収容所所長を模した絵を描いた。

このトランプは帰国時にソ連の検閲に引っかかることはなく、検査官は「オーチンハラショー」(大変よろしい)と褒めてくれた。
そのため日本へ持ち帰ることができ、現存している。

昭和22年(1947年)に解放され無事帰国。舞鶴港に到着後、街を歩いていると、いかにも抑留帰りと分かる格好をしていたのにも関わらず、周辺にいた人たちは物珍しそうにジロジロと見てくるだけで誰一人、お疲れ様でしたと言ってくれなかった。辛い思いをして命からがらやっとこさ祖国へ戻ってこれたのに悔しかった。

その後、終戦後の日本の実状を知るべく約半年間、日本全国を回る旅に出る。

平成3年(1991年)2月、第76-77代 内閣総理大臣・海部俊樹より、シベリア抑留に対する慰藉の念として銀杯と書状が授与される。

平成10年(1998年)7月には、全国強制抑留者協会主催のシベリア慰霊訪問団に参加。約半世紀ぶりにシベリアの地を踏む。
自身が収容されていたチョプロオーゼロのラーゲリ跡地にて、チョプロオーゼロ組を代表して弔辞を述べた(神戸新聞 1998.7/9「半世紀ぶりにシベリアへ、抑留体験した豊岡市の3人」)。

シベリア抑留者
與田治郎右衛門純次(元庄屋グループ会長)

シベリアのトランプに関する
メディア掲載/出演(一部抜粋)

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