【随時更新】

エピソード

昭和の名投手 村山実との思い出

観光事業に取り組んだ青年時代

【元庄屋企業グループ「たけの海上花火大会(第48回)」"納涼懇親会"(2018年)】(與田治郎右衛門 開会挨拶文より)
『たけの海上花火大会 誕生の由来』
「現在第48回目と記録されている竹野花火大会は、私の生涯の発案事業の中でも非常に脳裏に残る事業の一つでもあります。高等学校卒業後、上海大使館に就職。昭和20(1945)年、陸軍満州独立工兵隊に現役入隊。圧倒的火力差のあるソ連軍戦車との命がけの戦闘(肉薄攻撃作戦)の後、ソ連軍に連行されシベリアの地へ(シベリア抑留)。昭和22(1947)年に、抑留生活からやっと生還し、兄の亡くなった後、竹野町「元庄屋」の後継者として、家業(各種燃料・肥料・飼料・建築資材等の販売)を継承する事になりました。当初より、商工会、観光協会の若手役員として活躍することになり、観光協会では企画宣伝部長の肩書きで真夏は砂浜を裸足で走り回った毎日でした。疲れを知らない20代から30代でありました。その中で、昭和35(1960)年頃と思いますが、自然のめぐみを受け継いでいる山陰一の海水浴場に客を引きつけるにはどうすべきか?遊動円木、滑り台、シーソー台、海中の飛込台、全但砂上剣道大会、のど自慢大会、日焼け大会、バンガロー村、商工会金融部「たのもし講」、自分の持っている知恵を絞り出して頑張りました。その中に「海上花火大会」があります。参考になったのは神戸港で大型船の上でやった花火の光景です。海に反射する花火、これだ!と思いつきましたが、当時、テトラポットはわずか一部分しかなかった。打上げの現場面積がどれだけ必要なのか、見物席は浜茶屋及び広大な砂浜がある。最終的には資金をどうするのか、豊岡の企業に無理を言ったりと、資金集めに苦労した事も良き思い出です。商工会、観光協会の皆さんの全員が力を合わせて、何とか乗り切る事が出来たと思います。花火大会は毎年やらねば・・・、中止したら今までの苦労は水の泡だ。。。2年目、3年目頃は中止した事があった様に思います(天候が雨のためもあります)。見物に来るお客さんからは非常に喜んで頂ける事は十分に分かるのだが、つらい年もあったと思います。そんな中で、竹野で営業活動をすることは、非常に難しいと気づき、私自身、豊岡(旧豊岡市)に進出する事になり、昭和40年(1965年)頃には家族を連れて豊岡に住居を移しました。現在のたけの海上花火大会の発案者の一人として自負しております。私自身は、このところの不況の中で、大型の花火もとうとうあげずじまいですが、93歳の今でも、何とか一度は大型の花火を打ち上げて人生を締め括りたいと云う気持ちはあります。1年でも休んだら、それ切り中止になる様な感じがします。何しろ何百万の大金が瞬間で消えるのです。それが花火です。」
=主催= ㈱元庄屋企業グループ
(㈱ライフィット・㈱B-side・㈱元庄屋・㈱AXIS)
=協力= ㈱奥城崎シーサイドホテル

損害額1億5千万円からの復活

【㈱元庄屋 第50回火災記念日にあたり】(2019年1月8日 與田治郎右衛門 朝礼挨拶より)
昭和44年(1969年)1月8日(水)午前3時30分、木造2階建て新築1ヶ月、旧元庄屋商店店舗全焼。初荷で持ち込まれた山済みの商品や、当時ではまだ少なかった新車の社用車も含め損害額は約3千万円以上(現在の消費物価換算約1億5千万円以上)。元庄屋商店は10余年の歳月を掛け、社員一丸となって築き上げた宝物が一瞬で泡となり消えてしまいました。警察からは放火の疑いで取り調べを受けたり、大事な財産に火災保険をかけていなかったり、仕入先からは取引中止の申し出を受けたりと、それこそ地獄のようなものでした。
しかしながら、そのどん底から這い上がり現在があります。当時のことを考えると、年に一度は全社員が身を引き締め、危機管理を緊張感を持って記憶に留めておかなければならない、そして今後、益々発展させていく元庄屋の歴史の中の大事な教訓とし、50年前に毎年1月8日を元庄屋の「火災記念日」として設定致しました。火災から50年間、大過なく過ごせたことは、元庄屋を取り巻く皆様方のご協力の賜と存じます。今後も元庄屋では火災に限らず、様々な面での注意を怠らず、続けていきたいと存じますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

工場倒産、借金地獄からの復活

1947年(昭和22年)にシベリア抑留から解放され帰国。翌1948年(昭和23年)、故郷・城崎郡竹野村で、父・與田治郎右衛門(先代)と共に、保険代理業を開業する。
同年、多可郡野間谷村にて、天然凍豆腐製造業、乾麺製造業、豆腐油揚製造業を開業し、1949年(昭和24年)、養父郡八鹿町に、凍豆腐製造業九鹿冷凍工場を設立開業。
しかし工場は数年で倒産し、多額の借金を抱えてしまう。借金取りに追われる身となったが、「私は逃げも隠れもしません、このシベリア帰りの丈夫な体を預けますから使ってください。」と、自ら債権者の方へ近づき、与えられたあらゆる仕事をこなした結果、借金を免責してもらった(致知出版社『致知』2017年2月号 103ページ)。
再起を図るため、1955年(昭和30年)4月に、豆腐油揚製造用機器及び各種燃焼機器卸小売及び工事施工業者、元庄屋商店(現:株式会社元庄屋)を開業し、社長に就任。
これまでに、但馬地方で、約3万台の家庭用・工業用灯油ボイラーの販売・設置を行ってきた。
その後、北近畿地域を中心に、各種建築設備・住宅設備機器卸売、飲食業、リサイクルショップ(古物商)、バンガロー施設、宅地建物取引業、賃貸建物管理業、建築工事業、とび・土工工事業、内装工事業、管工事業、不動産有効活用企画事業、資産相続サポート事業(士業ネットワーク)、貸画廊経営(アートギャラリー)等を展開。
90歳を超えた現在(2019年:令和元年現在)も、自身が経営する会社(元庄屋企業グループ)の代表取締役会長を務め、生涯現役をモットーに働いている。

大日本帝国上海大使館 勤務

【"大使館"勤務時代(戦時中)を思い出す。在上海大日本帝国大使館事務所に関する記録】
私、與田治郎右衛門(襲名前:與田純次)は、1945年に「大日本帝国陸軍満州独立工兵隊」に現役入隊するまで「在上海大日本帝国大使館事務所」の司政部行政科に1年半ほど勤務しておりました(1943年2月〜1944年10月)。
2003年、78歳の時、私は大日本帝国上海大使館を訪ね、上海へ渡りました。当時の記憶を頼りに、また現地の人に聞き込みをし、大使館があった場所へ辿り着くことはできたのですが、建物は跡形もなく残っていおりませんでした。
"東洋摩天楼"と称された高層ビル「ブロードウェイマンション」(1934年完成)と、鉄橋「外白渡橋」(1908年開通)は、当時と変わらぬ姿で残っており、60年ぶりに見ることができて感激したことを覚えております。
92歳になる今年2017年、70年以上昔の記憶を頼りに、当時の大日本帝国上海大使館周辺の地図を描いてみました。大日本帝国上海大使館は「虹口区(ホンキュウク)」にあり、呉淞路(ウースンロ)軌道電車の終点、北四川路・呉淞路の合流点の前に位置します。大使館の前には「上海陸戦隊本部」、近くに「上海神社」があったように記憶しております。
「在上海日本国総領事館」も同時期にあり、私は大使館と総領事館を行き来して仕事をしていました。
大使館の正確な住所は分かりませんが「魯迅公園(虹口公園)」(中華人民共和国上海市虹口区東江湾道146番地)の付近だと思われます。
今年の2月に、東アジアの近現代史を研究されている、とある大学の先生から、在上海大日本帝国大使館事務所に関するご質問を頂いた事がきっかけで、地図を描きました。
陸軍に入隊する以前の、70年以上も昔の記憶を思い出す良い機会となりました。有難う御座いました。(2017年8月30日)

内閣総理大臣より銀杯を授与

「シベリア抑留」解放から40余年。
1991年(平成3年)2月19日、海部俊樹(第76-77代)内閣総理大臣より、『シベリア抑留に対する慰藉の念』として「銀杯」と「書状」が授与されました。
與田治郎右衛門(襲名前:與田純次)当時66歳。
その後も、2007年(平成19年)11月に福田康夫(第91代)内閣総理大臣、2010年(平成22年)12月に菅直人(第94代)内閣総理大臣から「書状」が授与されました。

故郷竹野の盆踊り大会と元庄屋

【故郷・竹野町の盆踊り大会と元庄屋家(與田家)】
その昔、故郷・竹野町の盆踊り大会は、私の生家である「元庄屋家」の前で行われておりました。竹野町上町の道路(通り)は、元庄屋家の前が少し広めに整備されております。
昭和50年代頃までは元庄屋前で行われていた盆踊り大会ですが、車社会になったということもあり、開催場所は小学校の方へ移されました。
「私の父、與田治郎右衛門(先代)から度々聞かされたことを思い出しています。庄屋の前を通る時は、編笠を取って頭を下げて御礼をして通るのが習わしだった。盆踊りは庄屋の前でないと踊ってはいけない、という事で、自動車社会になるまで(昭和50年〜60年頃まで)は現在の竹野町上町の元庄屋の前で楽しい盆踊りがはずんだものです。(略)」
【2012年「元庄屋末廣会」会長・與田純次 挨拶より】

福戸あやさんが朝日放送アナウンサーに!

2017年3月に、與田治郎右衛門純次の戦争証言を取材された、元兵庫県立小野高等学校放送部・福戸あやさんが[朝日放送]のアナウンサーになられました。
取材当日「私は将来アナウンサーになります!いつかテレビで見てもらいたい!」と宣言されていた福戸さん。
その後、孫の大学の後輩(慶應義塾大学、孫が4年次に1年)となり、卒業後、有言実行!
見事、アナウンサーになるという夢を叶えられました。
福戸さんは、與田治郎右衛門純次の戦争証言を取材後、その取材内容をもとにアナウンス原稿を作成。
第41回【全国高等学校総合文化祭】(2017年)のアナウンス部門に出場されました。
(兵庫県立小野高等学校・福戸あや、アナウンス原稿『未来(あした)へ…』)
ABC朝日放送アナウンサー・福戸あやさんの今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。

俳優・今井雅之さんとの思い出

(2020年5月 Facebook投稿より)
28日は、豊岡市出身の俳優、今井雅之さんの五回忌でした。
今井さんは元陸上自衛隊員で、保守系文化人としても活躍されました。
神風特別攻撃隊をテーマとした舞台『THE WINDS OF GOD』の原作・主演でも知られている名優です。
【俳優・今井雅之さんとの思い出】
今井さんが初監督された故郷豊岡市が舞台の映画『SUPPINぶるうす ザ・ ムービー』(2004年)。
弊社(株式会社ライフィット/元庄屋企業グループ)も撮影物件の紹介等でご協力させていただきました。息子一家がエキストラ出演させていただいたのも良い思い出です。
また、株式会社 元庄屋の専務取締役・與田祥二 (三男)は、今井さんと同級生で、今井さんが帰省された際はよく同級生グループで食事に行ったりとプライベートでも仲良くさせていただきました。
(2015年2月に放送された朝日放送『朝だ!生です旅サラダ』に今井さんの同級生として出演。)
弊社代表取締役・與田稔 (息子) コメント(神戸新聞/2015年5月29日発行)
【「子どもたちの憧れ」今井雅之さん死去、県内関係者ら悼む 】
撮影場所を紹介するなどした豊岡市の不動産会社社長、与田稔さんは「今井さんが自宅まで来てくれたのがきっかけで、次男が大学で演劇をしている。子どもたちの憧れだった」。
今井雅之さんは郷土「但馬」の誇りです。
いつまでも皆さんの心の中に。

倉科カナさん主演ドラマ、撮影協力!

【元庄屋グループ撮影協力!】
女優・タレントの倉科カナさん主演!
兵庫県豊岡市の“城崎温泉”を舞台としたNHKドラマ『あったまるユートピア』(2017年)の制作時、撮影場所の提供、俳優控え室の提供、撮影物件の紹介等で協力いたしました。
倉科カナさんが演じる主人公の鷹宮伊織が飼っているウサギ🐇を探す場面は元庄屋グループ敷地内で撮影が行われました🎥
(NHK総合:2017年12月放送/NHK BSプレミアム:2018年1月放送)

【産經新聞に掲載(1976年1月19日)】
「シベリアの思い出いっぱい。シラカバのトランプ見つかる。"帰れる、帰れない・・・"、占った男たちの手あかも。」
シベリアはいま氷点下四〇度の極寒。ちょうど三十年前、原野に点在する収容所におびただしい日本人捕虜が囲われ、飢えと労働に耐えていた。厳しい作業のあい間をぬってシラカバの皮をはぎ、エンピツをなめつつトランプをつくった捕虜がいる。「ヤポンスキー・ダモイ・ダモイ(日本に帰れるぞ)」やソ連兵の言葉に何度となく振り回された捕虜たちは、このトランプに群がり「帰れる、帰れない・・・」と占いながらつぎつぎと死んでいった。復員後のどさくさで、なくしたはずのトランプがこのほどひょっこり作者のもとに。「トランプをいま一度囲もう」作者は、四散した仲間への呼びかけをはじめた。
豊岡市幸町、会社社長、与田純次さん(五一)がその人。カードは実母、城崎郡竹野町竹野、与田よしさん(七七)が屋内でみつけて届けた。ジョーカーを入れて五十三枚。このうちスペードのキングをなくし五十二枚がそっくり残っている。タテ五センチ、ヨコ三センチ、乾燥してヒズミが出ているが、絵も数字もはっきり。
ソ連国境チャムスの独立工兵隊経理幹部候補生だった与田さん。二十年八月八日、兵舎上空にソ連機が襲来、与田さんの〝シベリア物語〟がはじまる。
まさかと思ったソ連参戦、低空飛行で陣地を偵察したソ連機は北へ去った。予想される戦車攻撃。工兵隊たちは工場マイトを抱えてタコツボに入り、敵戦車を待つ。肉薄攻撃失敗。牡丹江向け退去命令。与田さんは仲間三十人とともに徒歩で南下、途中満人地区へ食糧確保に向かい、ソ連兵の機銃掃射を受けた。生き残ったのは七人。一人一日三十個のカタツムリを食べながら原始林を放浪。九月一日、ダイバコウ近くの平地て日本兵を見、終戦を知る。
ソ連兵に武装解除され、シベリア・チョーブローゼ送り。そこはラーゲリ(収容所)だった。小便が飛まつのまま凍りつく原野で五百人の仲間とともに強制労働、二十一年冬、凍傷で右手中指を切断し病院へ、戦友・広田要氏(故人・鳥取駅助役)と背中合わせに寝る。故郷の思い出話をしているうち、いつの間にか広田氏は死んでいた。栄養失調と寒さ。仲間の半数は倒れた。
その年九月、約五〇キロ離れたベラカンのラーゲリへ。シラミとりと演芸会ぐらいの話。収容所の楽しみは少なく、ふとトランプを思いたった。シラカバの倒木の皮を厚さ三ミリ程度にはぎ、うる覚えのキングやジャックを描いた。ジョーカーは、鬼のような収容所長、ナチヤーニックの似顔絵入り。ババ抜き、七ならべなど、単純なゲームの中に〝笑い〟もあった。ひょうきん者のソ連兵・イワン上等兵が仲間入りすることも。半面、夜は「旅のツバメはいつまた帰る せめてわたしもふるさとに・・・」、抑留者がつくった悲しい歌が流れ、トランプは「帰れる、帰れない・・・」と占う男たちの手あかにまみれた。
「ダモイ(帰れる)」二十二年八月、与田さんはまさかと疑った。列車の中でハバロフスクという地名を聞いたとき〝日本〟が近いことを感じた。身体検査は車中でも再三行われ、文字を記したものはすべて没収。しかも、ボロ切れに包んだトランプは取り上げられなかった。検査のソ連兵は〝ニヤッ〟と笑うだけ「きっと、芸術品と思ったんだよ」ーと、与田さんは振り返る。二十二年四月二十日、舞鶴港着。
竹野町の自宅から届いたトランプには青春があり、死んだ仲間の思い出があった。いま、観光で外国を旅行することはあるが、シベリアには二度といきたくないーという「トランプの世界はもうない、仲間が生き残っておれば、便りがほしい」過去を語る与田さんの目はまっ赤だった。
【1976年1月19日発行 産経新聞 (但丹ニュース)より】

シベリア慰霊訪問団での弔辞

【與田純次 著「シベリア慰霊訪問団に参加した想い出」より】(寄稿『シベリア慰霊訪問記』1997年 全国強制抑留者協会 編)
1998年(平成10年)7月13日〜17日の5日間、“全国強制抑留者協会”主催の慰霊訪問団に参加して、久々に緊張と感激を味わった一瞬でした。
(抑留から解放されてちょうど50年の年、與田純次 当時72歳)
最終目的地だったテルマ地区に、脳炎ダニ異常発生のため、日本国厚生省から、我々の立ち入りを禁ずるとの通達により、通過するだけの予定だったチェプロオーゼロ、ビラカンの収容所跡と墓地を、時間をかけ丹念に捜査していただいた際、チェプロオーゼロの病院で、抑留初年度に祖国の夢を見ながら雪の下に消えていった多くの戦友に一番身近なもの、だから、急ではあるが弔辞を頼むとのことで、誠に僭越ではありましたが、皆さんに代わって弔辞やわ申し上げたのでした。テルマ地区が目的だった人達には誠に申し訳ないと思いますが、我々少数のチェプロオーゼロ、ビラカン組にとっては、こんな感動と幸運はなかったと思います。ありがとうございました。団長さん、また添乗員、通訳の皆様、団員の皆様、あらためて御礼申し上げる次第でございます。
ー弔辞全文ー
『もっと早く来たかった。50年は長過ぎた。今は亡き戦友の皆さん、私たちは今回初めてシベリア慰霊訪問ができると聞いて飛んできました。このことは50年の間、頭から離れなかった私の夢でした。あの時、皆様の襦袢、袴下、褌まで剝ぎ取って広野の雪の中に埋めてきた、というより、雪をかき集めて皆さんにかけてきたこと、本当にごめんなさい。あの時は何の感情もわかず、ただ言われるままに行動していました。栄養失調で退院直後の私でしたので放心状態で、ただ次の穴に自分が入るのかなぁくらいのことしか思えませんでした。本当にごめんなさい。このことだけが50年間、私の心の隅で消えることのない苦しみの一つでした。軍隊の話、戦争の話、シベリアの話になると、世界中の観光旅行に行くことがあってもシベリアだけは行きたくない。なぜなら、野ざらしにしてきた多くの戦友、零下50℃の凍土に凍えている友が恨んでいるような気がする感情が込み上げてきて、話が続かない時もありました。やっと地下の皆様にお会いすることができました。せめて、戦友の体に、戦友の骨に手を当てて「すまなかった、許して下さい」と言いたくてやってきました。もうすぐ8月のあの暗い思い出の終戦、敗戦の日が近づいてきます。僅かな時間でお別れしなければなりませんが、安らかに眠って下さい。戦友の皆さん、今の気持ちの十分の一も言い表すことができませんが、慰霊訪問団の皆様に代わり、悼辞を申し上げます。』

長男、医学部医学科教授 就任

2010年(平成22年)4月、長男が東邦大学医学部新生児学講座主任教授に就任。
同年、帝国ホテルで開催された教授就任祝賀会には、長男の日本赤十字社医療センター小児科時代の上司であり、師と仰ぐ、川崎病の発見で世界的に著名な川崎富作先生の姿もありました。川崎先生は、私・與田治郎右衛門と同じ1925年(大正14年)生まれです。
長男が、私・與田治郎右衛門とのエピソードを医療雑誌の取材で述べております。
【医療雑誌『Fetal & Neonatal Medicine』「私のモチベーション:周産期医療のさらなる発展のために新しいタイプの周産期関連医師の育成目指す」(2014年4月号 メディカルレビュー社)より】
「僕の名は與田仁志(よだひとし)。昭和三十一年四月三日に生声を揚げ、お母さんと一緒に約六十日病院で過した。異常な生れ方をした僕の誕生を僕のお父さんが次の様に書いて呉れた。(中略)結局、仁術に依り生命を得たと云へる子供であれば、医學に感謝すると同時に仁義に厚き人間にならねばならぬと云ふ事から、仁(ひとし)と名付け字カクの都合で“志”を付けた」。これは私の父親(與田治郎右衛門)が書いた文章で、私の赤ん坊の頃の写真とともにアルバムに残してくれていたものです。私は出生時、分娩子癇で母子ともに生命の危機にさらされたのですが、当時、京都大学の産婦人科医の懸命の治療により親子とも一命をとりとめました。私は出生時の顛末を物心ついてから知りましたが、以来、心のどこかに「医學に感謝すると同時に仁義に厚き」という言葉が常にあり、自然と医師になることを目指したように思います。

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